歴史

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1&D STORY vol.8 二度目のBSE 〜1990代〜 将来を見据えた、不撓不屈の精神で挑む

魔の2001年9月」のトリプルショックを受けながらも、徐々に体力を持ち直してきたダイリキ。そこへ再び、今度はアメリカからBSEの恐怖が押し寄せてきた。その時、健次が取った行動とは…。

迅速に課題を見つけ、外食を立て直す。

トリプルショックはダイリキに大きな影響を及ぼしたが、健次の陣頭指揮の元、2002年度通期で予算達成率102.6%という数値へと回復した。この大きな原動力となったのは、安定した小売の底力であった。不採算店舗を、身を切る思いで退店させたことにより経営体質は改善。国産牛肉は敬遠されたが、ダイリキの強みである輸入牛、そして豚肉・鶏肉で活路を見出したことが、その大きな要因と言える。

反面で深刻だったのは、外食であった。この当時、タベルという別会社で運営されていたが、BSE以降、数多くの店舗で赤字を出し、債務超過状態に陥っていた。そのような状態での合併は法律上、不可能であったため、健次は平成15(2003)年夏以降、外食の立て直しを図った。自ら店舗に足を運んで状況を把握し、現場の社員からヒアリングを行うなどして、積極的に課題の洗い出しを行ってきた。
その中から、メニュー、価格、オペレーション、施設、そして人など、さまざまな課題が浮き彫りとなってきた。
そうと分かった健次はまずメニュー変更に着手した。肉屋が運営する焼肉店として、おいしくて、なおかつ値打のある商品・価格にこだわった。

そして、その年の10月、ダイリキはタベルを合併。ダイリキで再び外食事業を行うことで、事業基盤をさらに強化し、巻き返しを図る段階に来ていた。
課題を見つけたら、迅速に改善を行い、一気に展開を図る。健次の真骨頂ともいえる経営手腕が如何なく発揮されたのである。

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アメリカでBSE発生! そこで健次がとった考えとは?

日本時間の平成15(2003)年12月24日。
―『アメリカの牛からBSE陽性反応』というニュースが届いた。
この情報を得た日本政府はすぐさま牛肉輸入禁止措置を行ったが、予期せぬニュースに外食各社は対応に追われた。資本力のある大手チェーンは牛から豚を使用し、メニュー変更を行うなどして急場をしのいだが、個人経営の焼肉店では閉店を余儀なくされることも少なくなかった。

世界最大の畜産大国・アメリカから肉がやって来ない。「アメリカの肉はおいしい上に安い。だから『日頃のおかずとして』お客様に手頃な価格で提供してきた。しかし、輸入が禁止されてしまってはどうしようもない……」
BSE騒動の最中、数多くの店舗の改装が実施できるか……健次は悩んだが、改装を行わなければ店の『不』は解消されず、結果的に売上は上がらないと判断した。
そして、前述のように半数近い店舗の改装を実行した。
この時の判断を健次は振り返る。「大変だったけれど、徹底的に改装を行い、店舗を作り変えたからこそ、お客様からご支持を再び得ることができたし、店作りの考え方が確立できた。小売事業という一つの柱もあって、結果的に会社も生き残れた。仮に改装を行わなければ、ワン・ダイニングという会社すら誕生していなかったかもしれない」
他の外食企業は売上激減にあえいでいた。

そのため、各社とも値引き合戦を繰り返してきた。ダイリキも例外ではなく、半額セールなどを実行した。しかし、売上が大きく改善することはなかった。
価格だけではなく、もっとお客様のご支持を得るための本質を見極めなくてはならない。健次はさらにその先の「攻め」の一手を模索していた。

50年の歩み