歴史

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1&D STORY vol.5 会社の先行きを案じた二つの出来事 〜1980年代後半〜

1980年代後半、日本は空前の好景気に酔いしれていた。
その日本を魅力的な市場と感じた世界各国から規制緩和の声が挙がった。「牛肉自由化」と「大店法改正」。ダイリキもその大波に激しく揺れ動かされていくことになる。

100億円達成! しかし、その裏で…

昭和61(1986)年、ダイリキは売上高61億円を記録。世間はバブル景気の始まりを告げた頃で、これから売上が驚異的に伸びていく時代に入りつつあった。

時を同じくして、海外では貿易自由化についての話し合いが行われていた。これは『ウルグアイ=ラウンド』と呼ばれ、日本の農業に一石を投じることとなる。その議題の一つに「牛肉自由化」があった。アメリカを中心とする欧米諸国から日本の閉鎖的な市場(特に農業・畜産界)に対して、もっと海外からの輸入量を増加させ、自由化をもっと行なうべきだという、日本にとっては厳しい主張が繰り広げられていた。
この『ウルグアイ=ラウンド』の動向を見聞きしていた健次はこう感じた。
「これは、チャンスだ!」

当時、ダイリキでも輸入牛を扱ってはいたが、取引量は制限されており、自分たちが扱いたい量は手に入りにくかった。しかし自由化となれば、自分たちが思うままの量を扱うことができるのであった。
また、当時の流通事情では、肉は冷凍状態で納品され、店で解凍を行っていた。単に「解凍」といっても溶かし過ぎてしまえば、肉を調理した際の旨味が損なわれてしまう。その度合いには熟練の技術が必要で、ダイリキはその冷凍肉を扱う解凍のノウハウが蓄積されていた。一方、量販店ではその技術はなかった。つまり、価格の安い輸入牛が日本の市場を一気に席巻すれば、ノウハウを有するダイリキが量販店より有利だと健次は考えたのだ。

それから五年後の平成3(1991)年、日本はついに「牛肉自由化」に踏み切った。ダイリキでも、牛肉自由化のキャンペーンを大々的に行い、店は大きな賑わいを見せた。
が、健次の予想を覆す事態が起きた。量販店は自由化当初、様子見だったが、徐々に輸入肉を扱うようになってきた。すると、攻勢は日を追うごとに激しさを増し、物量が圧倒的に多い量販店との競争が激化してしまった。
その要因の一つに、冷凍からチルドへと保存方法が進化したことが挙げられる。保存状態に特別なノウハウを持たなくても扱いやすくなったことで、量販店も輸入牛を扱えるようになっていた。チルドになったことで、ダイリキが扱う肉の質も良くなったが、同時に量販店との競争時代へと突入することとなった。

翌平成4(1992)年、売上高がついに100億円を突破した。店には活気があり、品揃えが豊富、鮮度が良い、それでいて「値頃」と感じる価格帯……「いいものをいかにして安く売る」という思いがお客様に支持され、なおかつ、牛肉自由化と好景気が追い風となった。
しかし、健次の心には釈然としないものが、澱として溜まっていた。
「今は、景気がいいから売れているだけで、本当の実力で売れているわけではない。今後、景気は絶対に悪くなるはずだから、ダイリキが残っていくためにもしっかりと『これから』のことを考えていかねばならない」
好機にこそ、落とし穴がある――「次」をしっかりと考えねば、と好景気に浮かれることなく、思い考えていた。

(左)大店法改正により量販店への出店が増えた(写真はアピタ港店) (右)ダイリキでも牛肉自由化を歓迎した
『大店法』改正により、出店戦略を見直す

この頃、健次の頭の中を占めていたのは、「牛肉自由化」の他にもう一つあった。それは、商店街中心の出店戦略だ。
人の流れが市場から商店街に移り出したのを契機に、商店街への積極的な出店を進めてきたが、大きく戦略転換しなければならない出来事が起こった。
それが『大店法』の存在だ。平成2(1990)年、アメリカ企業の日本進出を巡り、地元商店街の反対運動が起こり、日米問題にまで発展。アメリカが「日本市場の開放」を求めた結果、法律改正により、規制が緩和され、大規模なショッピングセンターの出店が可能となった。
実はその数年前から、健次は大手量販店の関係者と緊密に連絡を取り合い、情報交換をしていた。それら情報を分析した結果、健次は答えを導き出した。

今はまだ商店街も元気があるが、いずれ大型ショッピングセンターも出店速度を速め、ショッピングセンターの時代が来る。そうなれば、人の流れが激変するはずだ。その時に備え、ダイリキも出店戦略を見直していくべきだ!」
ダイリキはその後、商店街への出店よりも、ショッピングセンターへの出店を進めていった。現在の商店街の状況を見ると、当時の健次の選択に先見の明があったと言える。
「牛肉自由化」、「大店法改正」……この時代の変化に対応しながら、ダイリキ自体も大きく変わってきた。それはチャンスでもあり、また一方では大きなターニングポイントとなった。

この二つの出来事を踏まえ、健次は考えた――小売事業だけでは、安定しない。小売以外の「もう一つの柱」となる事業を作り上げねば、と。