歴史

INDEXページへ戻る

1&D STORY vol.1 固定観念にとらわれない発想 〜創業期〜

創業者・髙橋健次。1965年にワン・ダイニングの前身となる「髙橋商店」を創業した。しかし、時代の流れに飲み込まれ、存亡の危機がやってきた。その時、髙橋会長が取った行動、あるいは「思い」とはどのようなものだったのか。第一回目は『着想』と題して、創業時の様子を紹介します。

二つの光景が、結びついた瞬間。

創業者・髙橋健次は1965年、鯨肉を扱う「髙橋商店」を大阪・庄内に開いた。
23歳の時だ。
小さいながらも、「一国一城の主」となった。さぁ、これからだと思った矢先、世界的に捕鯨禁止の風潮となっていった。「これからはもう鯨の時代ではない……」そう悟った健次は次なる手を探し始めた。

平日は店を営業し、週一回の休日には商店街や百貨店に出向き、今、何が売れているかアンテナを張り巡らした。次なる商売の情報を収集し始めたのだ。当時、健次には二歳になる娘と、生まれたばかりの長男がおり、家族を養っていかねばならないという責任感・危機感もあった。

そんなある日、友達に連れられて、三宮の焼肉屋に行くこととなった。その時の印象を今も鮮明に覚えている。「ニンニクや内臓肉に抵抗があったけれど、食べたら非常に美味しかった」
またある日、市場調査で訪れた梅田の百貨店の食品売場に行くと人だかりができていた。覗いてみると牛の内臓肉を手頃な価格で販売していた。
「そうや、これや!」—この瞬間、健次の頭の中で二つの出来事が結びついた。
「日本人が戦後の復興からもっと這い上がって、海外の国々にも負けないようになるためにはスタミナが必要なんや!自分はその後押しをしていこう!」

そう感じた健次は1967年から、鯨肉を扱いながら、焼肉材料の販売も始めた。

(上)ダイリキ豊南店(現在のダイリキ本店) (左)ダイリキの第一号店「スーパーエース庄内店」
「お客様のため」固定観念に、とらわれない工夫。

肉はごちそうだったこの時代。特別な時にしか食べることができなかった。
しかし、健次は「肉を日頃のおかずとして、お客様にはお気軽に、お手軽に召し上がってもらいたい」という強い思いを持って、新たな事業に取り組み始めた。

この「お客様のために」という考え方は今でも健次にとってぶれない「軸」となっている。

今では考えられないが、当時、「肉」といえばすき焼きに代表されるように煮ることが主たる調理法であった。「肉を焼いて食べる」というのは、家庭であまり馴染みにない食習慣であったため、お客様からは「どうやって食べるの?」と聞かれることが多かった。
そこで、健次は店頭での試食販売も始めた。焼ける匂いに誘われてお客様が殺到。看板にも『焼く肉を売る店』とわざわざ打ち出してアピールに努めた。

また、焼いて食べるために欠かせないのがタレ。健次はタレの調合にもこだわった。
鯨肉を扱ってきたことで、タレの知識や材料は持っていた。それらを元にして、美味しく召し上がっていただくための味や陳列した際に美味しそうに見える照りを出すために、連日、昼間は営業しながら、夜中遅くまで黙々とタレの調合に試行錯誤を重ねた。

そして調理師の資格を持っている健次は、単に肉の塊を並べて売るだけでなく、食べやすいように一口大にカットしたり、肉を美味しそうに盛り付けて陳列するなど、お客様のためを考えて、これまでの肉屋にありがちな固定観念にとらわれず、工夫を凝らした。

健次のアイデアとセンスが、輝きを増し始めた一つのターニングポイントとなった時期といえる。これまでの肉屋とは違い、手頃な価格で、しかも食べやすいと大阪・庄内で評判を呼び、徐々に焼肉材料の売上が鯨肉を上回っていった。

そして、2店舗目、3店舗目と店舗も増えていくこととなった。