歴史

INDEXページへ戻る

1&D STORY vol.7 魔の2001年9月
苦境に立たされる 〜2000年代初頭〜

「もう一つの脚」として始まった外食事業。 郊外へと展開し、順調な伸びを見せていた。 しかし、2001年9月。創業以来の大苦境を迎えることとなった。

郊外へとシフトした外食事業

都心で展開していた外食事業だったが、都心ではさまざまな制限も多く、出店戦略を郊外へとシフトした。契機は平成10(1998)年にオープンした『あぶりや伊川谷店』。当時、関西では郊外で焼肉レストランを展開している企業はなく、健次はそこにチャンスを見出して、以降、積極的に出店を推進した。
『あぶりや』はファミリーをターゲットとし、客単価を家族4名で一万円と設定。ソフトドリンクやデザートを拡充させ、キッズメニューなども用意してファミリー層の取り込みを図った。

しかし、平成12(2000)年ごろになると、郊外型焼肉レストランが増え、競争が厳しくなる中、地域別に業績格差が明確になってきた。そこで売上が土・日に集中した『あぶりや』とは異なるターゲットに向けた新たな業態開発に乗り出した。
それが曜日要件に左右されない、そして若者をターゲットとした業態の『ワンカルビ』だ。客単価は2,000〜2,300円で設定。炭火七輪で召し上がっていただくというものだった。

都心から郊外へと広がった焼肉レストランはお客様から支持を集め、健次が『もう一つの脚』として立ち上げた外食事業は立派な柱として成長し始めていた。

写真
大打撃を受け続けてきた5日間

順調な業績を記録しながら、平成13(2001)年、21世紀を迎えた。新たな時代でも、お客様に愛され続ける店・会社でありたいと健次は思っていた。
しかし、その思いとは裏腹に、社運を左右する出来事が怒涛のように押し寄せた。

始まりは平成13(2001)年9月10日。
食肉業界のトップと会食の最中に本社から一本の緊急連絡が入った。「社長、大変です! 千葉でBSEに感染した牛がみつかりました!」
BSE――十数年前にイギリスで発見された牛の疫病で、足腰が立たなくなるショッキングな映像が世界中で知られることとなった。よもや日本でBSEが発生するとは……会食相手もまだこの情報を入手しておらず、健次がその旨、伝えると、互いに「業界全体が大変なことになる」と危惧した。
健次はマスコミが過剰に騒ぎ立て、必要以上の騒動となり、後々まで尾を引く風評被害になりかねないことを懸念していた。夜のニュースを見ると、その予感は的中し、全てBSE一色となっていた。
「エライことになってしまった……」
情報が錯綜し、対応策もままならないまま翌日を迎えると、11日、今度はアメリカ・ニューヨークで同時多発テロが起こった。報道各社はツインタワーにジェット機が激突していくセンセーショナルな映像を繰り返し、一斉に報じ始めた。
BSE報道は収束した……と思いきや、テロの報道が一段落すると、マスコミは再び騒ぎ立てた。国の後手後手の対応、国会議員による無意味なパフォーマンスは結果的に風評被害を助長させ、食肉業界全体が深刻な被害を被ることとなってしまった。

そして、息つく暇もないまま三日後の14日。大手量販店・マイカルが事実上、倒産した。グループ負債が1兆5482億円。小売業では最大の負債額であった。
当時、ダイリキはマイカルに二十店舗以上も出店していた。「マイカル倒産」という衝撃的なニュースが飛び込んできてから、健次は翌日の営業について役員と協議した。
店を開ければ確実に損をする。しかし、お客様は営業を待ってくれているだろう。その上、従業員もいるのだ……。健次が真夜中まで悩んだ挙句に導き出した答えは、「営業を行う」。損を覚悟で、お客様、そして、従業員のために営業を決めた。
五日間のうちに、これまでに経験したことのない、荒波に襲われてしまった。

真価を問われた時代

BSE、同時テロ、マイカル倒産……健次は出口の見えない真っ暗なトンネルに突入してしまった。「二年分の利益が一瞬で吹っ飛んだ」―創業以来初となる15億円もの赤字を出し、不振店舗は退店し、経営体質のスリム化を図ることとなった。
バブルが崩壊し、大型倒産が続出。銀行までもが破綻してしまう時代だった。

健次は思った―当社ばかりではなく、ありとあらゆる業界・業種の企業淘汰が始まっている。ダイリキも今こそ、『価値ある企業』であるかどうかの真価が問われている!
そんな中、健次の心を揺さぶったのは、逆境に耐え、愚直に創意工夫しながら、お客様に価値ある店として認めてもらうために奮闘している社員の姿であった。
頑張る社員に報いたい―。
「賞与ゼロや給与を下げるということは生活の保証に直結することだし、モチベーションダウンにもつながる。それはしたくない」
厳しい業績ではあったものの、社員の生活保証を第一に考えた施策を取った。健次の思いに対し、社員は厳しい環境ながらさらに奮起した。

50年の歩み